飯処

オタクの妄言

今日の承花語り

死んだものは死んだのだ。

それは単なる終わりでしかない。2度と笑うこともないけれど、悲しみに涙を流すこともない。もう痛みに苦しまなくていい。大きくも小さくもならない。老いもない。その先には何もない。

ただの終わり。


花京院典明はそうなった。

彼には生きたという事実と過去しかない。未来はない。あの空条承太郎がそれを理解できないはずがない。DIOの能力を暴いて仲間のために死んだ。立派で強くて仲間思いの、同い年の男だった。仲間であり友人だった。

彼は死んだ。


何が言いたいかというと、承太郎って区切りをつけられる男だ(とおもう)。

切り替えができる。ドライなわけじゃない。事実を落とし込んで理解できる。

彼の性質は精密で理知的だ。

過去、母を救うための旅をして、たくさんのことがあった。命の危険はあっただろうし、いつ母の容態が急変するとも限らないという焦りもあっただろう。だけど、仲間にかこまれ、共に戦う中でその絆は深まっていった。きっとそれが、あいつらなら大丈夫だろうという驕りになってしまったかもしれないけれど。

彼の中の大切な思い出だ。でも、それは思い出でしかないとわかっている。



弁解の余地があるならば、嫌いじゃない!!!!!と声を大にして言う。

好きだよ推しCPなら。なんでも食べるし、とても愛しい。だけど、『どこか花京院典明に縋るような承太郎』は少し解釈にズレがあるな…いや好きだし読むんだけど。昔はわたしも書いたような記憶もあるんだけど。今になってはちょっとヤだな。いや読むし好きなんだけど。

“そういう部分”も乗り越えた最強のスタンド使いでいて欲しいな。

私の中の承花の花京院は、きっと承太郎のそういう男前な部分にも惚れている。p



個人的にここ数年、承花についてゆっくり自分の中で見つめなおしてきた。

『承太郎はホモじゃなくてたまたま「良いな」と───そばにいても苦じゃない、何処か心地の良い距離感のこの男をそう思った。

一種のプラシーボや吊り橋効果だったのかも知れない。確かめようがない感情を持ったこともあったかもしれない。

だけど彼は死んだ。承太郎の抱いたよくわからない感情もそこで終わった。進むこともできなければ、答えが返ってくることもない。誰に聞くこともできない。死んだから。もういないから。残されたのは“ただの終わり”。

宙ぶらりんになった、文字通り突然宇宙に放り出されたような、蹴りのつけられない感情が漠然と残ったと思う。承太郎は気になると夜も眠れないタチだ。

だけど、聡い彼は終わりを終わりと落とし込んで次に進める。進むことができる。

だから結婚もしたし愛しい娘もできた。

宙ぶらりんは宙ぶらりんのまま、それを終わりとして良しとすることを選んだ。もしくは選ばざるを得ないと、月日の経過と共に理解してしまった。

例えば、若い承太郎ならもしかしたら諦めないのかもな、と思うけれど、4、5、6と時が進み落ち着いた彼ならばそれも是とするだろうな…と。


ただ一度、ただの思い出としてでなく花京院のことを思い出すとするのなら、それは死ぬ直前なのかなとも思う。

(これは完全な個人の性癖なんだけど)

10代の娘を持つ父親がその生涯を閉じる時、娘と同年代だった かつての仲間の早すぎる死への覚悟や仲間への献身を思い出すかもな、なんて。

いや、思い出すも何も、だからこそもう2度と失いたくないという覚悟の表れの6部の行動だったろうな。でも、鮮明に思い出すならやはり死に際なんじゃないか。


いやぁ、創作物だし生存院可愛くて好きなのだけれど、ちょっと時間おいてゆっくり承花に向き合うとやっぱり、あの50日間の中で生まれた行き場のない感情というか。心地よさというか。ポルナレフが騒ぎ、花京院がそれに鋭い反応を返し、承太郎が帽子の鍔を下げる。アヴドゥルがそれを快活に笑ってジョセフがポルナレフに加わる。

あの青春は限定的でありながら常しえというか。短い永遠だからこその尊さというか。



時が止まってしまったからこそ永遠になってしまった。故に尊い。そこが何よりもの私の中の承花観の根幹だ。


あの2人はよしんば生き残ったとしても絶対に口には出さずに墓場に持っていくだろうけどね。そこがいいよね。醍醐味だ。見ていてやきもきしてしまうのは、飽きさせることがない。


だんだんとっちらかってきたな。申し訳ない。

つまり何が言いたいかというと、承花はとても良いぞ!